◇【短期集中連載】能登半島地震 ~今、伝えておきたいこと~ 本鍛治千修 ④

災い転じて……

 今回の地震により能登半島の先端に位置する珠洲市は、壊滅的な打撃を受けた。家の4割以上が全壊状態で、半壊状態の家も人が住めるような状態ではない。
 基幹産業である農業や漁業も、水田は大きくひび割れ、「今年の水田作を放棄せざるを得ない」と嘆く農家が多くいる。また、漁業はというと津波に船が流され、海底の隆起により港が干上がり、港の機能を失い、出漁すらできない。
 加えて、これまで地元の雇用を支えてきた中小零細企業の被害も大きく、生業を再開するまでには、相当の時間を要するものと思える。
 一方、労働人口の多くは、2次避難等で珠洲市を離れており、復興するための労働力を確保するのも困難な状態にある。
 電気、水道等のインフラは、県外の事業者の力添えを受けて、一部の被害の大きな地域を除いてほぼ復旧しつつあるが、未だ先が見えていない。
 ここまで甚大な被害を被った以上、被災前の姿に戻そうと考えるのではなく、開き直って、この際、「災い転じて福となす」の精神で、大胆な政策転換を図るべきと考える。
 一つには、今回、被災した珠洲市、輪島市、能都町及び穴水町の奥能登地区の2市2町を統合し、仮に能登市とし、身の丈に合ったコンパクトな行政組織を造ること。
 二つには、これ以上の人口流出を防ぐためにもインフラの早期復旧を図る必要があるが、仮復旧に留め、経費を掛けないこと。
 三つには、復興事業に特化した土木工事等を大手企業ばかりでなく、地元企業に担わせること。
 四つには、地域のコミュニティを大切にした市営の集合型の復興住宅を何カ所かに建設し、被災した高齢者や経済的な理由で自宅を再建できない等の者に安価な賃料で提供すること。今のように点在する集落に人が住んでおれば、冬の除雪や電気、上下水道等のインフラを整備する予算も必要となるが、拠点に集合型の復興住宅を建設すれば、これらの経費も少なくて済み、一石二鳥だと思う。
 田んぼや畑が気になる方は、集合住宅から通勤するようなスタイルで農作業に行けば良いだけのことだ。
 五つには、被災地にあっても、被害の程度が比較的軽い家や被災しなかった家で地元に帰らない者の家を市が一時的に借り上げ、その家を市が仲介し、家を必要としている人に斡旋してはどうか。
 私が、市長ならば、こうしたビジョンを一刻も早く市民に知らせ、将来に対する不安感を持っている人達に定住の決意をしてもらう一助にする。
 そうしない限り、被災前の人口の概ね半数の者は、珠洲市を出て行かざるを得ない悲しい現実しか残らないだろう。
 仏教の教えに「莫妄想(まくもうそう)」という考えがある。これは、余計なことを考えず、まずは、行動する。という意味である。今こそ、この考えが必要なのではないか。

能登半島地震が教えてくれた教訓

 大地震は、いつ、どこで起きるかは「神のみぞ知る」、いや神も知らないかもしれない。そんな大地震は、人の力では、防ぎようがない。だとしたら、事前に耐震設計の建物を作るなど、大地震の被害を最小限にすることぐらいは可能だろう。
 能登半島地震は、私たちに色々な教訓を与えてくれた。
 一つには、半島という細長く突き出た地理的制約がある中に、いくつもの集落が点在し、かつ、超高齢化地域に起きた地震であること。
 二つには、道路網の脆弱なアクセス困難な地域に起きたことである。
 日本は、四方を海に囲まれ、いたる所に半島や岬が突き出ており、これらの地域に共通するのは、アクセスできる道路が往々にして1本しかないことである。予算は係るが可能な限り道路は、複線化を図る必要がある。
 また、災害対策基本法第49条に市町村長は、避難所の設置、設備、資材等の確保を図ると明記されている。しかし、現状は、若干の非常用の水や食糧、毛布等は備蓄されているが、体育館や廃校となった学校等の施設を指定避難場所として、避難者は、そこでごろ寝の避難生活を過ごさなくてはならない。そこには、プライバシーも男女の区別さえもない。50年前とほとんど変わっていない。
 解決策としては、各市町村に人口の1%程度の簡易テントの備蓄を義務付けてはどうだろうか。どこかで大きな地震等の被害があった場合、各市町村は、お互いに、その簡易テントを被災地に貸出しする仕組みを作っておけば、市町村の負担も少なく、かつ、非常時には、大量のテントを確保する事が可能となる。
 次に支援のあり方も一考を要すると思う。今回、自分が被災者になって初めて解ったことだが、前述したとおり、被災者は「支援を受けることが当たり前、支援する側も支援することが当たり前」という錯覚に陥ってはいないだろうか。
 被災者も「痒いところに手が届く」支援が続いていると、それが当たり前のような錯覚に陥り、自らが持っている力を発揮しようとしなくなる。なぜなら、「母からの無償の愛」のような支援を受け続けていると何も考えずに3食食べられるからである。どんな人間でも、一度、楽をすることを覚えると、何かをしようという意欲さえ失ってしまう。
 避難所やトイレの清掃でも良い、ストーブの燃料の補充でも良い、せめて自分の食べる炊出しの食事くらい自分で取りに行く事でも良い。与えられた環境で自分のできることを見いだすことが大切だと思う。
 支援は、まずは「自助」が基本であることを国民一人ひとりが理解する必要がある。支援する側も、大変ありがたいことであるが、被災者が自立できるように促しつつ、サポートする程度で良いと思う。
 被難生活も2か月が過ぎた。電気も通じ、スーパーマーケットも開店し、徐々に復興に向かっている。しかし、未だに、自ら車も運転でき、自活できる能力を十二分に持っているのに、支援物資を貪る者がいる。私は、こんな被難者にはなりたくない。

新たな課題

(1)公費解体
  発災後4か月が過ぎ、今、あらたな課題が生じている。それは、公費解体に伴う申請に係る諸手続である。
 申請する際に解体する物件に係る相続権利人全員の同意書を必要とされている事である。この地方に限らず田舎では、農地や家屋は、代々、相続という概念が無いままに法的手続きをしないで一子に引き継がれてきた。
 その延長線上に現在があり、ここに来て全ての相続権利人の同意書を取るとなると何代にも遡り、数十人以上から実印、印鑑証明を伴った同意書を取らなくてはならないこととなり、これは、現実にほぼ不可能といえる。
 市によっては、やむを得ない事情がある場合に限るという条件付きだが、申請者の宣誓書のみで公費解体の申請ができるような代替案があるらしい。
 しかし、このような一部の市の特例でなく、国の制度として、必要な法整備を図る必要がある。例えば、現に固定資産税を納付している者を当該家屋等の管理者として申請を認めることとしてはどうか。
 申請手続きが障害となって、公費解体が遅れることがあってはならない。

(2)上水道の復旧の遅れ
 発災後4か月が過ぎたが今も水道の断水状態が続いている。各県の水道関係者の応援で本管は、かなりのペースで復旧してきた。問題は、各戸の水道メーター以後の水道管が破損しているケースが非常に多く、復旧に時間が係っている。
 全半壊した家を一軒一軒、倒壊した家の瓦礫の下を潜り、水道メーターの在処を探り、水道が遮断されていることを確認し、次の家に行かないと水道水を通水できない。
 また、水道メーター以後の戸内は、各個人の責任となり自費で修繕する必要があるが、これに対応する水道業者の人手不足により、水道メーターの直前まで水が来ているのに戸内の水道管の修繕ができず、水道を使えないという悲しい現実がある。修繕を専門業者に依頼すると3~4か月待ちとのことである。
 この際、各都道府県から水道の専門業者に出張してもらい、その旅費等は公費で負担してはどうか。義援金を全ての被災者個人に配分するのではなく、その金額を有効に活用すべきだと思う。

(3)蘇る水田
 例年ならば、この時期は山間の水田に田植えがなされ、青々とした水田がある風景が広がっている。日本の原風景そのものの光景が見られる。

蘇った僅かな水田

 しかし、今年は、先の震災の影響により、例年の3割程度しか田植えが出来ていない。
 その原因は、前述したような物理的要因に加え、農家の高齢化、避難先から帰ってこられない被災者が多いことなど、人的要因も大きな原因となっている。
 そんな中にあっても、あちらこちらで田植えが終わった水田を見ることができるようになった。
 在宅避難者にお弁当を配布するため出かけた時のことだ。偶然、通り掛けた道路脇に田植えを終え、腰を下ろしていた老農家と話す機会があった。この老農家が気になったことを話し出した。「今年作らなかったら、来年以降、作付する意欲が失せてしまうから、1枚でも2枚でも水が張れるところがあれば作るよ」との事であった。老人からは悲壮感すら感じた。
 農家の離農により、耕作放棄地が年々拡大する傾向にあって、今回の地震によって更なる拍車が係ることを危惧して止まない。
 これ程、広範囲に水田が被害を受けていては、水路の保全やひび割れた田んぼの修復など個人の力で復田することは困難だ。水田は、確かに個人資産であり、公的資金を投入することは困難だと思うが、水田の保つ多面的機能に着目し、全てとは言わないが公的資金を投入すべきと考える。

まとめ

 能登半島は、昨年5月5日こどもの日に震度6強の地震に見舞われ、甚大な被害を被った。その7か月後の本年1月1日、正月にまたもや震度7の地震が襲ったのである。次はゾロ目の3月3日だと予言する者もいた。この予言が当たらなくて安堵した。
 昨年の地震による被害で500万円をかけて修繕し終えた家が、今度は、半壊状態にまで被災した者もいる。その人は、ローンも残っていると途方に暮れていた。
 悪いことばかりではない。こんなこともあった。お風呂の帰り、避難所で静かに座っているだけの90歳のお婆ちゃんに会った。お婆ちゃんは、避難所に居た時の表情とは、別人のように元気そうで「避難所では、お世話になりました。畑を見てきた」と生き生きとしていた。自立の覚悟ができているように感じた。
 これから、2次避難に出た方々が帰ってくる時期がくる。一人でも多くの方々が自立の道を歩んで欲しいものだ。二度と、1次避難所を頼りにして欲しくない。それが、必ずや能登の復興に繋がると信じている。
 被災者の皆さん! 今、頑張らなくて、いつ頑張るのですか。一人ひとりの自立・自助の奮起が必ずや明日の能登を復興させる原動力になる。
 発災後、やがて5か月が過ぎようとしている。この間、自衛隊、全国の消防関係者、各都道府県警の皆さん、自治体の皆さん、全国から炊出しや後片付けに来ていただいているボランティアの方々等、多くの方々から物心両面にわたり、ご支援いただいたことに心から感謝申し上げます。皆さんのお力添えを糧に、必ずや、能登は復興するものと信じています。
 私の避難所での活動も、終わりが見えてきた。この間、色々なことがあったが、私の至らぬ点をサポートしてくれた大将、パンチパーマのお兄ちゃん、立派な髭を蓄えた旦那及びトネさん、ありがとう。
 また、「そんな危ないところにいつまでいるの? 早く横浜に帰ってきなさい」と叱ってくれた妻や娘には、心配ばかりかけてきたことをお詫びするとともに、私の性格を理解し、避難所での活動をだまって見守ってきてくれたことに感謝する。

 最後になりましたが、私が避難している上黒丸小中学校避難所に各種物資を支援していただいた中橋商事㈱様、民サ麺業㈱様、さぬき麺業㈱様、㈱おおみね様、伊藤園㈱様及び福玉米粒麦㈱様に改めて御礼申し上げます。
 また、珠洲市まで遠路遙々炊出しに来ていただきました本場さぬきうどん協同組合様、仙台の五福星(ウフーシン)の早坂様及びそのスタッフの皆さん、小松うどんの㈱中石食品工業の石田弘栄様に心から感謝申し上げます。

《了》

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