在宅避難のはじまり
近所の家は、全壊または半壊状態であったが、我が家は旧家で、1階部分は柱も古く、一片が18㎝もある大きい柱で、かつ、釘を一本も使っていない昔ながらの工法の家で、専門家曰く、この家は五重塔に代表されるように地震などの揺れに強いとのことであった。こうしたこともあり我が家は、震度7の地震にも耐えていた。
1月2日からは、家が全壊した妹夫婦、たまたま、お正月で帰省していた、その娘で私からは姪夫婦とその子供の6人での在宅避難生活が始まった。
妹の話によれば、蛸島小学校の避難所は、人で溢れ、ギュウギュウ詰めの状態で、とても小さな子供を抱えた家族には適さないとのことで、我が家に避難してきたとのことであった。我が家は、地震の被災後も4日間は、上水道が使える状態で、電気は使えないが、食生活には不自由しなかった。
在宅避難中も震度4~6の地震が頻発し、2~3分おきに地震が発生する異常な状態が続いた。小さな子供は、その度に恐怖に怯えていた。子供ばかりではない。大人も生きた心地がしない日々が続いた。
ついに5日目、貯水槽の水も尽き、我が家も断水状態となり、それぞれの避難所へ帰って行った。
この頃になると、姪夫婦は、金沢までのバスが一部運行されることとなり、長い時間をかけて埼玉県の自宅に帰って行った。
妹夫婦は、また蛸島小学校の避難所へ戻り、その数日後に加賀温泉の2次避難所へと移動することとなった。
立って半畳、寝て1畳の生活
私も、旧上黒丸小学校の避難所に身を寄せた。私が到着するなり、「先輩」と呼ぶ声がした。同じ農林水産省に席をおいていたO君だった。
是非、お手伝いをして欲しいとのことであった。私は、「できることなら何でもするから言って欲しい」と快諾した。
私が避難所に到着したのは夕方であったことから、早速、暖かい味噌汁と炊きたてのご飯とお漬物を頂いた。避難所に身を寄せている数人の女性軍が炊出しをしてくれたのだった。
この避難所には、マックス109名の被難者がいた。私が着いた時は、自宅に戻って在宅被難者となったり、子供や親戚の家に行ったりした人たちがあり、結果、概ね半数程度の被難者だったが、体育館は、満員状態で私に与えられたスペースはピアノの下のわずかな空間だけであった。
一晩、被災者の皆さんと寝食を供にし、感じた事がある。被難者には、3つのパターンがあることが分かった。一つは、自らが被災者であるにも係わらず積極的に避難所の運営に係わる者、二つには、「これをやって欲しい」とお願いすると、渋々ながら動く者、三つには、被災者を決めつけて何にもしない者の3パターンがあることが分かった。当然ながら、身体的に動けない者にまで、三つ目のパターンには入れていない。
そこで、私が避難するまでのリーダー格の人に相談し、「丸抱えでサポートしていると、その人がダウンしたらどうするのか?」「震災等の支援の基本は、第1に自助、第2に共助、第3に公助ですよ」と私の考えを伝えた。
「私も、皆さんと同じ被災者ですよ」。皆さんに寄り添って優しく接する選択をしたら、私自身も楽だし、憎まれ口をたたきストレスを抱えたくない。しかし、誰かがこの憎まれ役を演じないと避難所の円滑な運営が成り立たないと感じ、敢えて悪役を演じることにした。
リーダー格の人でさえ、助ける事が当たり前だと認識していたらしい。決してそれは間違った考えではない。被災者の多くも、「助けてくれるのが当たり前だ」と思い込んでいる。
その日の晩ご飯が終わった後の時間を利用して、私から、「大変厳しく聞こえるかもしれないが、皆さんに考えて欲しいことがある」と切り出した。私からお願いしたのは、「動ける人は動いて欲しい。体育館の掃除でも、トイレの掃除でも支援物資の整理でも、何でも自分でできることは自分でやって欲しい。親鳥が雛に餌を与えるように、自分のスペースまで配膳してくれるのを待っていてはダメだ。まずは明日から、動ける人は、せめて自分の食べる分くらい、自分で仮設の厨房まで取りに行って欲しい」と話した。
最初は、怪訝な顔つきで「変な奴が来たな」というような様子で私の言動を注視していたが、「自助の精神」を繰り返し訴えた結果、動けない人を除き、すべての被難者が動くようになった。その結果、それまで無表情だったお婆ちゃんまでもが笑顔を取り戻し、「動けなくて申し訳ないね」と自分の意思を周囲に伝えるようになった。私は、「鬼のように見えるでしょうけど、これが本来の姿だから、動けない人は、周りの人が助けるのは当たり前なのですよ」と諭すように話した。この一言で周囲の人たちも私の真意が理解できたのか、気安く話しかけてくるようになった。
次に取り組んだのは、避難所に居る人たちと、在宅被難者の名簿の整理だ。どの集落に誰が、何人いるのか、緊急時の連絡先等をデータベース化することだった。早速自宅にもどり、自分のパソコンを持ち込んで半日がかりで整理した。
生まれ故郷とはいえ、50年以上、古里を離れている人間にとって、浦島太郎のような境地に至っており、どの集落にどんな人がいるのかは、地元の人の協力無しに、このようなデータを整理することはできない。
このデータが今でも行政や被災者の管理に役立っていることは、言うまでもない。
また、こんなこともあった。避難所に来て数日後の事であったろうか? 毎日、炊出しをして貰っているK女史から「米が底をつきそうだ」と聞かされ、一瞬、どうして? と戸惑った。なぜなら、田舎の農家なら米を備蓄していて当然だと思い込んでいたからである。しかし、農家が備蓄しているのは玄米であり、停電が続いている間は、精米機も使えない。
日本人は、空の米櫃を見ると無性に不安感が助長されるDNAを持っている。
私がとっさに思いついたのは、私が顧問を勤めている中橋商事㈱の社長にお願いするしか無いと閃いた。
その場で社長に電話で「お米を支援して欲しい」と申し出た。社長からは二つ返事で「どこに持って行けば良いか」と快諾して頂いた。
翌日、社長自らが大型のワゴン車を運転し、寸断された道路を迂回しながら、通常なら2時間弱の行程を6時間かけて精米やパックライス及び湯煎して食べられるおかゆ等、大量に避難所まで配達してくれた。
人間模様
大震災等により日常を奪われた極限状態に至ると、その人の持っている本性が如実に表面化してくる。
ある者は、自らも被災者でありながらも甲斐甲斐しく動き回り、周囲の被難者のお世話を積極的にしてくれる者、このような人は、極まれであり、避難所には、欠かせない貴重な人材である。
一方、周囲を気にしないで、ただひたすら自分の事にしか気が回らない者、このような人は圧倒的に多い。一番やっかいなのは、前述した人たちの塊の中に、飛び抜けて、身勝手と思える者がいる。
このような者は、支援物資が届くと搬入の手伝いをする訳でもなく、搬入が終わると我先に支援物資に群がり、自分の欲しいものを手に持ちきれない程に持って行く。
また、在宅被難者で震災の発生から時間が経ち、電気も復旧し、スーパーマーケットやドラッグストア等もいくつか開店し、日常が戻りつつある中においても、いつまでも避難所に来てせっせと炊出しの食事や支援物資を持って行く、自分の欲得しか考えていないと思える人もいる。このような者に避難所のお手伝いをお願いしても一切協力をしてくれない。
ましてや、報道による情報だが、支援物資をメルカリに転売している者までいるという。国民の善意を私利私欲に使っているとは、言語道断な行為である。
助け合いとは、支援する側からの一方通行では成り立たない。助けられる側からの協力もないと成り立たないのである。「助け合い」とは双方向の行動によってのみ成立する概念だと思う。まさに、「自助」の精神が必要なのだ。
足るを知る
京都の龍安寺のつくばいに「吾唯足知」と記されている。被災者の多くは、行政や支援者に対して、十分過ぎるような支援を望んでいる人が多いように思える。
少し古い話になるが、平成5年(1993)7月、北海道の奥尻島で大震災が発生した時のことを思い出した。まずは、支援物資として備蓄していた災害用カンパンと水を送ったが、その内、ラーメンが食べたい、熱いご飯と味噌汁が食べたいと、要求が段々と日常に近い食生活を望むようになってきた。被災者に元気が出てきた証拠であり、うれしい限りである。この震災を期に震災時等における食糧の支援のあり方が変わってきたように思える。発災後、2~3日でパンやカップラーメン、パックライスなどが主として届くようになっている。
加えて、衣類や衛生用品などの物資も、そんなに時間をおかずに支援物資として届くようになってきた。ボランティアの方々からの迅速な炊出しもあり、大変、ありがたいことである。
しかし、あまりにも手厚い支援のお陰で、支援を受ける側が「被難者だから助けてくれるのが当たり前じゃないか」という錯覚に陥ってしまった。
被難者は、震災等の非常時に支援者に完璧を求めてはならない。「足るを知る」ことが大事だと思う。自分たちが何もしないで「あれが足りない。これをよこせ」などの不満の声が大きすぎるように思う。
また、不平不満の捌け口を行政にぶつけている人達もいる。行政を担っている人も自らが被災者であり、自らの家の片付けもしないで、連日、行政の運営に当たっている事に感謝すべきだと思う。また、他の都道府県から行政の応援に来ていただいている方々も多数おいでる。土地勘の無い中で全ては被災者のためにと懸命に頑張っておられる。
支援は、いつまでも続くものではない。いつか支援が打ち切られる時が来る。その時が来て、慌てふためくのではなく、支援を受けている間に、自分に何ができるのか? 今後、支援がなくてもどうして自活していくのか? 自分とその家族が、この先、生き抜くための術を考えておくことが大切だと思う。サポートする側も、ただ助けるだけでなく、その人が将来、自立していけるような支援であるべきと考える。
例えば、水やお弁当等の支援物資を届ける際にも「元気にしていますか? これからの事を考えていますか?」などと声掛けをして上げることも大切であると思うし、被災者が10を希望しておれば、8程度に支援を止め、後は、自助の努力で完結するようにすることも大切な支援のあり方だと思う。
美人の湯
被災して10日程してからであろうか。O氏が「水さえ確保できれば風呂に入れるが」と言い出した。それなら「山から水を引けば良い」とある人が言い出した。早速、山に分け入り水源を探し出す者、おおよその距離を測る者、塩化ビニールのパイプを買いに走る者など、その対応の早さには感心した。
私も「手伝う事はないか」と尋ねたら、「お前は足手まといになるから、留守番隊長をやっておれば、それで良い」と言われ、周囲は大笑いとなった。
その翌日から、早速、工事が始まった。田舎には、色々な人がいる。大工さん、左官業、ボーリング工、配管工、電気工夫など実に経験豊富な人たちがいる。それぞれが実力を遺憾なく発揮し、瞬く間に水道工事が完成した。
お風呂の持ち主であるO氏の家は、半壊状態だが、風呂は、ひび割れて傾いているが釜だけは、破損を免れていた。
冷水掛け流しのお風呂が完成したのである。まさに人の輪がなせるお風呂の完成だ。いつしか、誰が言ったのか解らないが、このお風呂を「美人の湯」と称するようになった。
湯守は、これまた、I氏を始め手の空いた人が担当し、2日に1回は、薪をくべた暖かいお風呂に入れるようになった。
能登半島の冬は、雪が積もり、とても寒い日々が続く。そんな中の「美人の湯」は、避難所にいる被災者だけで無く、近所の在宅避難者にも好評で、傾いたO氏の家の居間は、次に入浴する者の待合所となり、いつも複数の者が集い、他愛も無い会話が飛かっている。被災者にとって、憂鬱な震災を忘れられる束の間の時間だ。私も、14日振りに湯船に浸かり、お風呂がこれ程までに癒やし効果があるものかと感動したことを今でも覚えている。入浴後、K爺さんが「連隊長(いつも私のことをこう呼んでいた)。紙おむつは、暖かくて、洗濯物も減って便利だぞ」と教えてくれた。私は、その日から支援物資の紙おむつを自宅に水が来るまでの4か月半着用させてもらった。
③に続く