◇【短期集中連載】能登半島地震 ~今、伝えておきたいこと~ 本鍛治千修 ①

 今年1月1日の「令和6年能登半島地震」。実家に帰省していて被災した全米工(全国米穀工業協同組合)元専務理事事務局長の本鍛治千修氏が、自身の体験を基にルポを書き上げた。ご本人の許諾を得たので、以下に連載する。

はじめに

 能登の語源は、アイヌ語で「突き出たところ」という意味らしい。その昔の旅日記で「能登はやさしや土までも」と詠われる程、能登は心温かい人が多い地域だ。
 そんな能登に令和6年(2024)1月1日、16時10分、マグニチュード7.6、震度7の大地震が半島を襲った。

能登半島地震の概要

 私の家は、幸いにも屋根瓦が20数枚破損したり、ずれたりして雨漏りはしていたが、周囲の家屋からみれば比較的軽い被害ですんだ方である。現に、珠洲市からは「準半壊」の罹災証明を発行して頂いた。
 また、私には、横浜に家族の住む自宅があり、帰ろうと思えば、いつでも帰られる環境にあった。しかし、完全に倒壊した家、半壊状態の家やそこから命からがら脱出し、避難所までたどり着いた人たちを目の当たりにして「私は、横浜に安全な自宅があるから帰ります」とは、とても言えなかったし、私の人間としてのプライドが、それを許さなかった。
 私は、人前で涙した事が記憶にある限り無い。しかし、地震と津波のダブルパンチを受け軒並み壊滅した集落の悲惨な光景を見た時、ただ呆然とし、溢れ出る涙を止めることが出来なかったし、カメラを向ける気にもならなかった。
 この、拙書は、被災者の視点から時系列に思いつくままに綴ったものであり、今後想定される首都直下型地震や南海トラフ等の大地震にも備え、何らかのお役に立てればとの思いから、私の体験談として感想も含めてとりまとめたものである。

その時

 令和6年(2024)1月1日、16時10分、私は、コタツとストーブで暖を取り、特に観たいという番組もないまま、正月くらいは、のんびりしようと思い、ただテレビを漫然と観ながら横になっていた。

珠洲市正院町の被害

 その時、下から突き上げるような一撃があり、家は、きしみ、引き戸はガタガタと音を出していた。「これは大きな地震だ。」と直感し、まずはストーブを消して、身を守るためコタツに潜りこんだ。
 衝撃の一撃から、時間にして1~2分後だったろうか、次の一撃があり、これは横揺れが激しく、かつ、揺れている時間が、これまで経験したことがない長い揺れであった。
 引き戸がガタガタと悲鳴を上げていた。とっさに、外に出た方が安全だと判断し、歩こうとしたが立つこともできず、四つん這いで玄関までたどり着き、地震で開いたと思える玄関から外に出ることができた。気がついたら、裸足のまま外に立っている自分があった。
 地震がおさまり、恐る恐る、家に入ったが、壁の一部が剥がれ、食器棚や冷蔵庫が倒れ、茶碗や湯飲み等が散乱した悲惨な光景が広がっていた。
 この時期は、日没も早く、既に、周囲は薄暗くなっていたが電気は停電で、テレビを観ようにも観られない。車に行き、装備されているカーテレビで地震の情報を得られた。画面からは、全壊や半壊状態の家屋の様子が映し出されていた。想像を超える被害だ。
 その時、携帯が鳴った。たまたま、正月に帰省していた姪っこ夫婦からだった。「買い物に出ていたが、自宅までの道路が地震で寸断され、帰れない。おじさんの家に避難したい」という電話であった。
 迷うこと無く受け入れる事に同意し、「早く、来なさい」と指示したが、私の実家に着いたのは翌日のお昼頃であった。
 後で聞いた話によれば、私の実家に通じる道路も、寸断され、通行止めの状態で、その日の晩は、路肩で車中泊をしたとのことであった。
 地震発生から、しばらくして携帯も使えなくなり、完全に情報から遮断された状態となった。唯一の情報源はカーテレビだけとなり、その日の晩は、私も、車庫前に出した車の中での車中泊となった。
 翌日、姪の夫が蛸島町に住む妹の家まで(通常なら25分ほど)寸断されている道路を避け、迂回ルートを探りながら、義理の父母の安否確認に行った。幸い、かろうじて倒壊した家から脱出し、蛸島小学校の避難所に居たということであった。

すさまじい破壊力

 令和6年(2024)正月の能登半島地震の規模は、批判を恐れずにいうならば、平成23年(2011)の東日本大震災や平成28年(2016)の熊本地震を上回る規模だったと思う。
 東日本大震災は、津波や原子力発電所のメルトダウンが象徴的だが、地震そのものの被害はそんなにも大きくなかったような気がする。現実に道路は、それなりに繋がり、津波の被災地までアクセスできていた。熊本地震も熊本のシンボルである熊本城の石垣の崩落が衝撃的であったが、熊本市内や郊外の比較的狭い地域の大震災であり、復旧も比較的早くできていたように思われる。
 今回の能登半島地震は、道路は至る所で亀裂が走り、大きく隆起し、あるいは陥没し、のり面の崩落など、とても車で移動できるような状態でなかった。加えて、至る所で山そのものが崩落し、道路を塞いだことから孤立集落が随所に発生した。一方、山津波の発生により、10戸程あった集落が、すべて流された地域もある。

北山地区の山体崩壊

 また、基盤整備された水田が、人の背丈を超えるような大規模な隆起で大きな亀裂が生じ、今年の水田耕作ができない地域もある。

水田に高さ2mを超える大きな亀裂

 一方、半島自体が、ところにより4~5mも隆起し、海底が盛り上がり、海岸線が沖合に大きく移動し、それまで使用していた漁港が干上がってしまったところも随所にある。

海底が隆起した海岸

 今回の能登半島地震は、震源地の石川県全域、富山県・新潟県の一部地域と被害の範囲が広範囲である。
 何より怖いのは、その後の余震である。地震発生から1か月半を過ぎた今でも、1日に1~2回、震度4程度の地震があり、震度1以上の余震が1,600回を超えている。
 能登半島は日本海に突き出たところであり、能登半島の道路事情は、半島の背骨に動脈となる幹線道路が一本走っており、その道路に接して横に道路が広がっている。魚の骨をイメージしたような地域であるが故に、その幹線道路が随所で崩落したことから、全国からの自衛隊、消防車、ボランティアの方々などの支援車も半島の奥まで入るのに相当の時間を要した。
 崩壊した家も7万戸弱あり、その内、珠洲市では全壊率4割となっており、想像を絶する甚大な被害となっている。

に続く

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